なくしたものたちの国

図書館で予約していた本が届いて、
それを受け取って、自転車に乗ろうとした時に、
大きな地震が起きた。

すぐに館内から沢山の人が駆け出してきて、
なんだか嫌な予感がして、iPhoneで震源地を見ると、
東北沖で起きたものということが分かる。
東京でこの揺れなのだから、
これはもう、大変なことになったと、急いで家に帰る。

テレビをつけると、
全く信じることのできないような映像が、
次々と映し出されている。
その日からの記憶は、あまりにぼやけすぎていて、
輪郭がまったくないような時間が続いていた。

悲しさ、恐ろしさ、無力感、
頭も心も混乱しすぎている。
テレビやtwitterなどは要所要所だけにして、
落ち着いて過ごそうとしても、難しかった。
音楽も全く耳に入らなかった。
そんな自分に対して、強烈な焦りを感じたりもした。

*

ちょうど一週間が過ぎて、同じ時間に黙祷をして、
久しぶりに、いつもの珈琲屋さんに出かけた。
ここのマスターは、もの静かでシャイな方だけど、
この日は今まで見たことがないような、
優しい表情で、穏やかに珈琲を淹れてくれた。
節電で薄暗いはずの店内でも、
それに全く気づかない温かな雰囲気。

いつもいるお客さん、この人とは
もう何十回も同じ場所で会っているけれど、
今まで一度も話したことがなかった。
挨拶すらしたことがない。それなのに、
その人と、自然と会話がはじまっている自分に驚く。

少し心が落ち着いてきたところで、
一週間前に図書館で借りた本を読みはじめる。
「なくしたものたちの国」という本。
読み始めから、ドキドキした。
ひとつひとつの描写、言葉が、
どうしても、今回の震災のことに重なって、
涙があふれてきそうになる。
でも次第に、その物語のなかに入り込んで、
一時だけ、ふわふわと、今の自分から
離れていくような、そんな感覚になっていった。

あとがきで筆者の角田光代さんはこう書いている。

"なくしたものの、かたちや色、声、なくしたときの気分、
はっきり覚えていればいるほど、それが「ない」というより
「あった」ことを思い知らされる。あったものはもしかして、
無になったのでなく、どこかに在り続けているのではないか。
ひっそりと。息をひそめて。わたしの見る世界とは、決して
交わらない場所に、でも、確固として今も在るのではないか。"

*

姿、かたちが変わってしまっても、
それは無になったわけではなくて、
新たなかたちをして在り続けるのかもしれない。

たとえば、
シャイなマスターの初めて見せてくれた笑顔、
いつも会っていたのに話したことのない人との会話。
それから、自分の家族への思いやりや、
困っている人への心配り、などなど。
震災が起きてからのわずかな時間で、
今まであまり気づかないでいた、
さまざまなことを、それぞれの人が感じていると思う。

今この瞬間にも、懸命な救助活動をされている人、
避難所で大変な生活をしている人、
そういった人たちを思うと、今すぐにでも、
自分にできることは、と慌ててしまうけれど、
これから復興までにするべきことは沢山あって、
そのために費やす時間も計り知れない。

震災を通して感じていること、
今まで気づかないでいた、
大事なことのひとつひとつを、たいせつに、
これから長く続く復興への日々を
強く、積極的に生きていきたい。

そしてときどき、
「なくしたものたちの国」を
読み返したいと思っています。