ルールを見つけて自由を知る

ある一定のルールを決めるということは、
一見、表現の可能性を狭めることのように思えるけれど、
むしろ、表現の奥深さのようなものを
追求していくことにつながるのではないか。

最近、建築に関する本を読んでいたのですが、
そこに興味深いお話がありました。
スペインの建築家ガウディが活躍した時代は、
エッフェル塔に象徴されるような鉄やコンクリートなどの
近代的な工業材料が出現したけれど、
ガウディはあえて古くさい石とレンガを使い、
カタルーニャ地方固有の伝統的な工法を採用する建築を追求した。
風土的な、あるいは技術的な限定の下で実行することによって、
創造性が生まれ、あのサグラダ・ファミリア大聖堂に行き着いた。
それから、安藤忠雄の場合は、
鉄とガラスとコンクリートという素材を中心にして、
幾何学による構成で、建築をする。
「誰にでも開かれた材料と構法をもって、
 誰にでもは決してできない建築空間をうみだしたいと思っているのです。」

音楽家に関して言えば、たとえば、
sc-88proというDTM初心者が
まず始めに揃えるようなチープな音源と、
mac os9までしか対応していない
Opcode EZ-Visionというシーケンサーのみで、
今も制作を続けているレイハラカミの存在であったり。

それから、中野正貴の「TOKYO NOBODY」という写真集は、
「誰もいない東京」というルールを元に、
正月やGWなど本当に人がいないときに、
本来ならば人が多いはずの”東京らしい”場所での
撮影を長年に渡って撮り続けた作品。
最新号のブルータスでのインタビュー、
「簡単なルールを決めておいたほうが、写真が走り出してくれる。」
ということばは、「TOKYO NOBODY」を通して、
力強く、響いてきます。

*

ここからは、お話が飛躍してしまうのですが、、

ルール。
それは身の回りに存在しているものにも、気づかないだけで、
実は、たくさん存在しているのではないかな、とも思うのです。
それゆえに、たのしみが生まれたり、よろこびを感じたり、
ときには、腹立たしい思いになったりするのかもしれない。

こんなことを言うと、なんとも安直にと笑われるかもですが、
たとえば、「人は必ず死んでしまう」というのも、
言ってみれば、それもルールであって、
そのことにどれくらいの意識を注げるかで、
日常の見え方も変化してくるのでは、思います。

本当の意味で、自由であるということも、
ルールという存在を知ることなしには、
感じることができないのではないかなぁ。
そのルールとどう向き合うか、
そこでは、ルールからはみ出すという
選択ももちろんあって、
そんな局面をどれだけたのしめるかが、
自由に生きるということなのではないかなぁ、と思うのです。