おばあちゃんのFAX

おばあちゃんがいたころの話。

僕:これでFAX送れたからね〜。
祖母:あんれー、紙が戻ってきちゃったじゃない。

データとして送られる、
という概念が分からないために、
紙そのものが、相手の家のFAXに
届くと思っていたおばあちゃん。
その場で大笑いした僕とおばあちゃんですが、
まだ半信半疑の様子でした。

そんな出来事が以前にあったのですが、
それとちょっと似たような感覚が自分にも。

*

先日、自分自身の、
長いスパンでのこれから先の予定を考える際に、
ひとまず、今、自分の頭の中にあるすべてのことを
すべて紙に書き出す作業をしていました。
するべきことからやりたいことなど、
規模の大小かまわず、ひたすら書き出す作業。
4時間くらいかけて、もうすべて出し切ったぞ〜、
と200項目ほど書き上げました。

結構大変な作業なのですが、
これをした後の爽快感はそうとうなものです。

そして、そのひとつひとつをmacに入力して、
最終的にはその膨大な量の項目を
iPhoneに移行し終えました。

この中に、今現在の自分が、
考えたことのすべてが収まっている、
そう思うと、なんだか、うれしくなって、
こころにゆとりが生まれてきました。

それと同時に、iPhoneに重さを感じたのです。

当然、データなのですから、
そんなはずはないのだけれど、
作業の達成感と、自分の念のようなものが大きくて、
そう感じてしまったのかもしれません。

これって、おばあちゃんのFAXと似ているなぁ、と。

*

僕の世代は、かろうじて、
「もの」そのものに触れながら、
成長してきたと思います。
だから、iPhoneの重さみたいなものを、
おかしな話だと思いながらも、想像することができます。

でも、少し先の、未来の子どもたちは、
今以上に、もっともっとデータ主体の
生き方になっていくのかなと思うと、
僕とおばあちゃんのやりとりと同じようなことが、
また起きるのかもなぁ、なんて思いました。

「おばあちゃんのFAX」というように
「おじいちゃんの〜」というブログを、
僕の孫が書いるところを想像してみたり。