アフォーダンス

この一年間、大学の卒業の研究の為にずっと読んできた学問領域がある。
生態心理学という領域の「アフォーダンス」という考えだ。この奇妙な名称の持つ意味を理解するには本当に時間がかかる。何となく分かった様に聞こえて、実は非常に深く且つ恐ろしく難解だ。とりあえず「アフォーダンス理論」と書かれているモノはほとんど目は通し立つもりだけど、僕もようやくこのアフォーダンスという考え方の本質がやっと分かってきた気がする。

あたかも自分がまるですごい知識を学んできたかの如く、おおっぴらにこの日記にアフォーダンス理論の意味を書き記すというのは嫌なのですが結構その感覚が分かってくると、面白い考え方なんでちょっと説明してみます。

アフォーダンスは英語のafford「提供する」(あふぉーぅどですね、あっふぉーど。とかふざけると我らがダンディ・ショウタに怒られそうなので)という動詞を名詞化した造語であります。一言で言うとそれは「環境と動物の相互関係」であります。動物を囲むあらゆる環境(そこにある机とか、椅子とか車とか、木とか地面とか・・・んもう周りにあるもの全て)には、動物が「知覚しうる」あらゆる情報を持っていて、その情報をそれぞれ動物は自らの目的に合わせてピックアップ(取捨選択)している、と。相互関係とはそういう意味でで言われているみたいです。

普通僕らは、「モノを見て→行動」に移すまでのプロセスを、どのように理解しているかを考えてみると、目を通じて見たモノ(「像」とでもいいますか)は「刺激」として、必ず「脳」とか俗にいう「ココロ」とかいうモノを「間接的に」通して、何らかの加工がここでなされて、はじめて人間が知覚出来る「情報」となり、その情報が身体にいき渡って手足を動かす・・・という感じに理解しているんではないかと思います。これは主に認知心理学的な考え方です。

それに対してさっきのとおり、アフォーダンスの考え方というのは、そんなわざわざ脳とか何かを間接的に通さなくても、見えるものそれ自体情報で、それを知覚しているだけなんだと。つまり「直接的」に知覚するという考え方です。

つまり前者は情報が人間の内で作られるのに対して、情報はもう既に外側にある環境にあると。ここで問題になのは捉え方の問題とも言っていいと思うんですけど、この辺の感覚がとても難しくて、違和感を覚える人も少なくないのではと思います。というのはやはり、どうしても前者の認知心理学的な感覚が僕らの感覚にあるからだと思います。

実際に書いてみたら、こんな長くなってしまった・・・でもここまで書いてあんまり理解出来ないだろうな・・・でもここまで書いたらちゃんと説明しなきゃだめだ・・・しまった・・・。余り長く書いても、見ていると疲れると思うので続きはまた明日書きたいと思います。

CRJの一人とは・・・

昨日は、CRJのイベントに出させていただいたが、イベント自体非常に素晴らしかった。その中で僕らも良いライブが出来たんではないかと思う。

他のバンドも素晴らしかった。自分たちは何故トリだったのか、疑問である。何か演奏するのが恥ずかしかった。そしてCRJの方達には本当に感謝である。自分の知らない同世代以下の人達と接する事が出来たのも良い刺激になった。
BBSにも書き込みしていたが、CRJにいる一人とは僕らと小学1年生からの付き合いである。彼は長男同士(?)という事もあって、昔から気が合う友の一人だ。小学校の背の順も彼が一番大きく、次が僕だった(二人とも今や、他の友にほとんど抜かされたけど)。彼をはじめ、小学校、もしくは中学校から一緒の同年代の友達は、音楽が好きな人が多い。そんな友の一人のイベントに参加出来た事は、とても嬉しかった。

久しぶりに会っても会っても特別に驚きはしない。「うーっす」「おーっす」とかそんな感じである。しかしそこには長い間一緒にいた人間同士にしか分からない軽くも重くもない空気が漂う。そんな友が自分にはいるからこそ、これから色々あるけれど何とかやっていけるんじゃないか。と思わせられる。