小さな力

非常に概念的な話だけど、何か自分たちの日常を取り巻く大きな「流れ」を変えるとき、一発の大きな力、つまり大きなアクションでは変えることは出来なくて、小さな力、小さなアクションを少しずつ加えていくと、変えていけるんだなぁと思った。

スタジオ

学校が家のようになっていて、帰りもずいぶん遅い。何せまた、学校にドラムパッドを置いて練習できるようになったからだ。レッスンの宿題はパッドでその後スタジオに個人練習をやりにいく日常。そして卒論・・・だぁぁ・・でも楽しい事やっているのには変わらず。

最近思うが、やっぱり最終的には本物のドラムで叩き込まないとだめだなぁと痛感している。パッドはモーション感覚がつかめるけれど、音の感覚は(特に太鼓類)つかみにくい。だからレッスンでやっている、4wayとかシンコペーションとかルーディメンツとかのジャズのような複雑ものは、まだパッドでたくさん叩き込む必要があるけど、何だかんだ音はやっぱスタジオです。最近お金はかかるけれど、個人練習にたくさん入るようにしている。でも全然足りない。でもお金も足りなーーーい。こんな事言うと同じドラマーの人に笑われちゃうな(笑)誰もが感じてるからなあ。もっとただで練習出来たらなぁ・・・。最高だなあ!その為にいろいろ今思考中です。

共鳴動作

自分という「主体」と「他者」あるいは「物体」との関係は、年齢が増すにつれて、離れていくという。

 赤ちゃんの頃は、自分がどういうものかという「自我」の認識ができず、目に入ってくるもの耳に入るものすべてが、あたかも自分であるかのように認識していて、まるで他者との距離がない。例えば、目の前にジャンプしている人がいれば、自分もそのジャンプしている人であるかのように、ジャンプする仕草をする。もっとも幼児心理学的には、このような「模倣」しているような行為を原始的な「共鳴動作」考えられているようだ。

年齢が増すにつれて、「自我」が芽生え始めると少しづつ「他者」や「他の物体」を認識し始める。知識や教養、経験などが蓄積すればするほど、目に入るもの、耳に入るものの「対象」と、自分との立ち位置との距離を無意識にはかって、自分のいらないものは遠ざけたり、気に入るものには近づいたりする。

しかし、僕くらいの年になっても、今までの蓄積された知識、教養、経験等を全く無視して、原始的な「共鳴動作」が行われる余地はないんだろうか?またはそのような対象はないんだろうか?特にそのような行為を誘発する対象物として、音楽とか絵や映像等の芸術的なものに果たしてそれがあるのか?

とてもそれが気になってしょうがない。